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大学入試での「人物評価」で日本人の劣化が進む


教育の質や人材育成考慮 大学入試改革の提言素案 政府の教育再生実行会議(座長・鎌田薫早稲田大総長)は11日、会合を開き、大学入試改革の提言素案を委員に示した。会合の冒頭、安倍晋三首相は「能力や意欲を多面的、総合的に評価し判定する方向に転換する必要がある」と入試改革の重要性を訴えた。(日本経済新聞2013年10月11日より引用) 安倍首相は前回の政権の時にも「学生にボランティアを義務づける」と発言したので、私は個人のブログで間違った意味で定着した和製英語として記事にしたのですが・・・。 学力一辺倒の大学入試を改革する必要性は多くの人が認識しているでしょうが、東大の秋入学と同様、下手に海外の制度を真似しただけでは成果は出ません。増してや入試で「多面的評価」などされたら、唯一の公正な選考基準である基礎学力さえ怪しくなり、ゆとり教育の二の舞で日本人の劣化を加速させるでしょう。 学力だけでない、多角的な評価基準を設けるにしても、その意味をちゃんと理解せず、形だけ海外の猿真似をしてもうまく行かないどころか、むしろ教育水準が低下すると私が考える理由をご説明申し上げます。

日本の「学力」の中身は・・・? 自慢するわけではありませんが、私は小学4年生の時に分数の掛け算と割り算が出来、5年生で1次方程式、6年生で2次方程式が解けたので、学校の授業内容があまりに簡単で退屈してしまい、勉強しなくなってしまいました。あの段階で飛び級などして、自分の能力に合った課題を与えられ、勉強する習慣がついていれば、私はもっとちゃんとした学力がついただろうと悔やまれます。 中学の時には英語の試験で「Argument, in a way, is a game」と書く問題が出ました。私は「Argument is, in a way, a game」と書いたら、その問題は不正解でした。解答用紙を示して津田塾出の英語の先生に「これは間違ってないのでは」と尋ねたところ、「教科書に書いてある文と語順が違っている」と、部分点さえつきませんでした。今考えても自分の答えが英語として間違っているとは思いませんが、日本の学校教育ではこうした無意味な点数が「学力」とされ、その積み重ねが偏差値序列になるんですねぇ・・・。 日本の教育での「学力」は、言われたことを杓子定規にやる能力なので、自ら学ぼうとしたり、何が本質的に重要かを考えたり、知識を応用して考える癖をつけたりするものではなく、地頭のいい子の能力を伸ばすものではありません。むしろ、横並びで「みんな同じことを、同じペースでやる」ことを強制して飼い馴らし、出来る子の能力を規格どおりに削り、やる気を喪失させます。また下手に疑問を感じて寄り道をしたり、個性が強かったり、他の子より出来たりすると規格外だとされ減点されます。 傲慢かもしれませんが、私は自分が日本の横並び管理教育の犠牲者だと思っています。横並びで足止めを喰らったため学習意欲を失くし、勉強面での能力が伸びなかったのです。でも、そう考えるのが私だけでないから、偏差値序列で子供の潜在能力を削がれたくないと願う親たちがゼロ歳児を英語教室に通わせたり、子連れで留学したり、お受験をさせて私立の小中学校へ行かせたり、アメリカン・スクールに通わせたり、子供の教育のために海外に移住したりするのではないでしょうか。

俺たちは勉強していたんだ 留学中にゴルフに行った時、ボストン近辺のゴルフ場で地元のティーンエイジャーとおぼしきお若い人々がキャディや貸クラブの出し入れなどの作業をしていました。ちょうど夏休みの時期だったので、おそらくアルバイトをしていたのでしょう。私が「若いのにお小遣いを自分で稼ぐなんて、偉いですね~」と一緒に行った企業派遣留学の日本人に言ったら、その方は「俺たちは勉強していたんだ。だからここに来られたんだ。あいつらはその分、勉強していないだけだ」とおっしゃいました・・・。 前にも記事にしたように、アメリカの大学入試基準は多角的で、学業だけではなく、アルバイトやボランティア経験なども評価対象となります。まして独立を勝ち取ったという自尊心のあるお国柄ですから、幼少からの自立・独立を尊ぶので、大金持ちのご子息やご令嬢でも自分のお小遣いをアルバイトで稼ぐことも珍しくありません。 日本では大学入試が画一的な学力試験の一発勝負だから「勉強だけしていればいい」のですが、その「学力」の中身が、ねぇ・・・。日本企業の競争力低下やリーダーシップの欠如の元凶が教育にあることは多くの人が感じているでしょうが、だからと言って海外の真似をしても駄目だということは、東大の秋入学を見ても明白でしょうに・・・。

勉強だけして来た人による「人物評価」は・・・? 私はドメドメの公立学校の横並び管理教育で潰されかかったものの、何とか一発試験で大学に入り、アメリカで企業派遣留学の日本人偏差値エリートの考え方を知りました。だから、もし同じようなお考えの「勉強が出来る」だけの先生方が大学入試で「人物評価」をしたらどうなるか、推して知るべしだと思えるのです。 学業以外の評価基準を下手に導入し、ペーパーテストによる基礎学力の評価がおろそかにされたら、情実入学や自己主張の強い学生がはびこる可能性があります。一方で、予備校が面接指南を行うようになり、紋切型の受け答えを詰め込んだ学生だけが合格する危険も出てきます。 アメリカの大学入試では、アルバイトやボランティアその他課外活動の経験が加味されますが、それは勉強以外に「何かやっていればいい」というのではありません。スポーツ特待生など、目覚ましい実績で将来性がある選手は奨学金付で入学させたり、学業以外にスポーツや音楽・芸術・社会貢献・地域活動などの活動が評価される場合もありますが、それも大学によっても、出願者の状況によっても、まちまちなので一概には言えません。 またアメリカの入試も各大学による難易度があり、特に難関大学ではただ「学業以外に○○も実績がある」だけでは差別化できないのです。要は、自分がその活動を通して何を得たか、何を考え、どんな問題意識を持ったか、そして今後は何を学びたいか、更に学んだことをどうやって自分のキャリアや社会に活かして行きたいか、が問われるのです。

「何をやりたいか」が大事 私はビジネススクールの志望動機のエッセイで「性別や採用形式に関わらず、仕事の量と質で評価されるべきだ」と書きました。外資系企業は男女平等、国籍不問で実力主義で機会均等だと思っていたのですが、実際に働いてみると、見ると聞くとは大違いでした。ですから、国籍や人種、性別、雇用形態に関係なく、個人の能力とやっている仕事の貢献度で評価されるべきだと考えていたのです。 国際化が進む中、グローバルな経済活動や人材活用の改善のために働きたい、なんて青臭いことを書いたのですが・・・。でもまあ、その考えは今も変わらず、その頃から持ち続けている問題意識がグローバル人材の活用という形で現在の会社経営の基盤になっているのですから、ある意味、MITの多角的な「人物評価」は意外に正当だったのかもしれません(またしても我田引水で申し訳ありません・・・)。 偉大なる創造は模倣から始まるでしょうが、欧米に倣ってシステムを導入するにしても、その背景となる現状や真の目的をちゃんと理解せず、猿真似だけでは期待する成果は得られません。体制に従順で決められたことを杓子定規にやるのも立派な能力ですが、それへの偏重を是正するために多角的な評価基準を導入するなら、もう一歩踏み込んだ改革が必要ではないでしょうか。まずは横並び意識を変革し、「学力」の中身を改良することから始め、本当の意味で「教育の質」を改善しなければならないでしょう・・・。 ©株式会社ライフワーク・アドバンス・代表 岡田ひろみ


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